先週、広島の豪雨被災地に行ってました。
スコップや長靴を車に積んで国道54号線を南へ。
本当は、希望者がいれば生徒も連れて行きたかったのですけれど。
私は‘組織’に属したり団体行動が好きではないので、単独での参加。
勿論、現地ではボランティアセンターの指示に従いますが。
(7年前、東北の震災時でも現地に赴いていましたので要領は得ていました)。
豪雨の爪痕は、人間の無力さや自然の脅威を見せつけられるに十分なものでした。
炎天下での土砂撤去作業。
勿論、これは私自ら望んでの仕事なので、不満があったりなどはしないのですけれど、ふと、‘人間が罰を与えられているのだろうか’等とも考えました。
アス高スタッフの岸本君曰く、災害にしても異常気象にしても、神様(かどうかは分からないけれど)が人間を懲らしめているという考えはあるようですね。
そうなのかもしれません。
けれど、天災でのそれは、不謹慎な言い方かもしれませんが、人にとって完全なる不幸でもないかなと思ったりもします。
前に、中東の国とかを訪れた時、‘人の手によって(爆撃)’破壊された町も見て来ました。
そこに残されたのは、人の憎しみや恨み…。
しかし、自然災害の復興の場合、そこには悲しみはあったとして、希望が見えてくる気がします。
今回のボランティアでも、現地の方から、「松江から来んさったんかね。ありがとう」と喜んでもらえました。
確かに、神が与えた罰なのかもしれない。
けれど、人はそれに抗うことが出来得る。
‘抗う’という言い方をしては、神様に対しての畏敬の念に欠けているかもしれませんね。
別の言い方をすれば、人を試すために敢えて試練を与えてくださっているのかもしれません。
・・・返す返す、生徒らも来させればよかった(強制でなく、希望者がいれば)。
ボランティアというのは(実は私は、bらンティアという言い方が好きではないのですが)、相手に与えてあげる立場ではなく、逆に、大事なものを学ばせてもらえる機会をもらえているのだと思います。
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