昨日は体育でした。
実は今、たまたま体調を崩している生徒が多く、昨日も当日になって体育欠席が…。
いつもは皆が一番楽しんでいる(多分)体育なんですけど。
アス高では、保体専門の先生監督の下、実際のところ体育は私が教えています。実はワタシ、英語教えるより体育教える方が好きなので。^^‛ (スミマセン。やらせて頂いて)。
昨日は生徒が少なくなってしまったということで、急遽、自宅に帰って用具の一式を持って来てボクシングやりました(他にもやりましたけど)。まぁ、軽い運動程度の内容ですけどね。
グローブを着けるのが初めてなのが殆ど。
ひとつ、「ホウ」と思ったのが、スタッフであるアキラのパンチ(ミット打ち)。
彼は経験者でもあるし、私が数年前に教えていたこともありましたが、ブランクが長い。しかしそれでも、結構いいパンチを打っており、捨てたもんじゃないなと感心しました(ただ、すぐに息があがるありさま。^^;)
アス高では体育の時間、いわゆる楽しみながらの競技・種目をすることが殆どなのですが、本音を言うと、私の中には大いに物足りない部分があるいいうか…。皆が参加する体育はそれでよいのですけれど、本当は、厳しく徹底的に鍛えぬくことの方が私は好きですし、‘そうでなければ’とも思います。それが出来る者には、その大切さを教えたいとも。。。
サッカー、ボクシング…。私自身、それで育ち、今の自分があると思っていますし。
グラウンドで、リング上で、実際に血も涙も幾度も流し、仲間や対戦相手と心から抱き合った経験などが今の私をつくっています。
全力を出し切ってなければありえないこと。
よく、教育として、勝負・勝敗に拘ることの是非が問われます。
勝利至上主義の弊害(相手への配慮などの欠如)、一方、勝利(結果)を求めないことで欠けてしまう‘甘さ’。
再度、アス高の授業(スクーリング)で体育を教える上では、楽しみながら、でやっています。
しかし、私としては勝利を目指さないスポーツ(に限らずですが)など、そこに価値を見出せないところがあります。
死に物狂いで打ち込むことの人間的な大切さ、本当はそれを教えたいとも考えてもいます。
もし、それを望む生徒がいるのなら(強制では意味ないですからね)。
勝利至上主義が、他への思いやりを欠いてしまうのではということで、その視点を‘バランス’に置かれる考え方もあるようです。やり過ぎはよくない、ある程度の‘抑え’というか、バランスが大事であると。
しかし、私は少し考え方が違うというか、やはり‘そこそこ’にやるというのは好きじゃないんですよね。
それなら、どう考えているか。
・・・誰に対する勝利か、戦う相手は誰か、だと思うんですよ。
言い古されたことかもしれませんが、自分に対して勝つことだと思うんですよね。
相手に勝とうとするならば、そこにドーピングとか、相手に対する敬意や思いやりの欠如とか、不正とか、そうした問題が出てくる。
戦いの対象を自身に向けた場合、そうしたことは‘自分を戒めること’として起きえないはず。
運動にしても何にしても、やる時は真剣勝負(娯楽でやるスポーツは、私は全くの別物だと思っています)。
勝たなければ意味がない。ただ、その相手というのは自分自身。
そこからは、真剣さ、謙虚さ、相手への敬意、弱い者への優しさ、それらの精神が育つはず。
ある意味、日本の伝統的な、武士道に通じる価値観に近いのかもしれません。
‘自分への悔しさ’を大事にしたいと私は思っています。
正直、昨日の体育で悔しかったんですよ。
自分の体力(技能)の衰えというか、ボールを蹴ってみても、コントロールがままならない。
かつては、いわゆるリフティングとか数千回出来て平然であったのに…。
悔しい、悔しい、悔しい!!!!
確かに仕事に追われまくりで、体を動かす時間が激減してしまっているのだけれど、それを言い訳にしたくない。
もう50代だろう、という年齢も口実にしたくない(年寄りの冷や水と言われようが)。
運動(自分を鍛えること)は、そこそこに…。
私はそう思ってないです。
だって、そうしたら自分の成長が止まってしまうというか、衰えていくだけだから。
今日も皆が帰ってからトレーニングしよう。
おい、若い君ら!
やっぱ、死に物狂いで生きなきゃ、この人生、面白くねえよ!!
疲れたら休んでいい。
けれど、自分自身ってのは、まだまだこんなものじゃない、っていう気持ちを胸に秘めてほしいな。
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